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2008年05月21日

Vol...(42) バゴボ族

 フィリピンには数多くの部族が住んで居ます。
私が知っているだけでもイゴロット族、ヤカーン族、モロ族、アタ族、バゴボ族、イルカノ族、タガロ族、ビサヤ族などが居ますが、それぞれに言葉や服装が違い一目で判ります。

 少しバゴボ族について書いてみたいと思います。
最初バゴボ族はミンダナオ島の海岸沿いに住んでいましたが、1900年初頭にマニラのゲンベット鉄道工事に従事していた日本人が此処に来て麻山開墾を始めたものですから、バゴボ族は次第に奥地の密林へと追いやられて行きました。

 標高6〜7百メートルもある高地でパライ(稲)やトウモロコシを植え、土地がやせてくるとまた移動するというような生活です。
 いくつかの集団に分かれていましたがそれぞれの酋長の元、団結力は強いものがありました。
ですから酋長同士が反目すると、よく戦いがあったそうです。

 バゴボ族はよく“ボンガ”(ビンロー樹の実)を噛んでいます。
ボンガを噛んでいると口の中や周りが血のように真っ赤になっていて、初めて見る人はとても怖がります。
彼らにとっては一種の“噛み煙草”のような物でしょう。

 男性も髪を長く伸ばしていて、口の周りや胸に入れ墨をし、耳には貝で作った太く丸い耳飾りを付けています。そして常に腰には蛮刀を下げ、手には槍を持って歩いています。
 足には動物の歯や骨で作った飾りを沢山付け、歩く時にはジャランジャランと音がするので遠くからでも彼らが来るのが判ります。
 当時の日本人の子供達はその音を聞くと一斉に家に逃げ帰ったものでした。

 そんな一見怖そうなバゴボ族でも、決して理由も無しに人を傷つける事はありませんでした。
そして彼らは“アゴン”という鐘を持っていました。
その鐘の音はとても美しく、月夜の晩などはココン、コンコン‥‥と遠くから聞こえる哀調を帯びた音色にうっとりしたものです。

 麻山でも一日の労働が終わった頃に、遠くからアゴンを打鳴らす音が聞こえたかと思うと、それに応えるかの様にあちらの山、こちらの谷からココン、コロロ〜ンと鳴り響いてきます。
 その美しい音色を聞いていた移民の中には、郷里を思い出したのか涙ぐむ人まで居ました。


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2008年05月14日

Vol...(41) ラングスタンの襲来

 昭和十七年頃、私がダバオに来て 初めて“ラングスタン”(イナゴの大群)の襲来に合いました。

 海の彼方に黒い雲がわき上がったかと思うと、それがどんどん大きくなり、こちらへ迫って来るのです。
イナゴの大群が空を覆い尽くすと、真昼でも夕方のように暗くなるほどの大群で飛来して来ます。
この大群が上空を通り過ぎる時、ブーンと言う物凄い羽音と同時に、バラバラとまるで雨の様に糞をまき散らしていくのです。

 その時の住民は家の雨樋を外すのに大騒ぎになります。
それは屋根から樋を伝って大切な生活飲料水のタンクに、イナゴの糞が入るのを防ぐためです。

 ラングスタンは南方ボルネオ方面から来るらしいのですが、襲来の情報が入ると近隣のパライ(稲の一種)畑やマイス(トウモロコシ)畑の周辺では火を燃やし空き缶などを叩いて予防線を張ります。

 もしラングスタンの先頭集団がその畑に降り立つと後続も一斉にやって来ます。そうなれば後はどうすることも出来ません。

 畑に青々と実っていた作物もあっと言う間に喰い尽くされて、茶褐色の地肌だけが残ります。
 畑だけではありません。学校の校庭の芝生、椰子の葉までも喰い尽くします。

 そして喰い尽くした後は何処へともなく飛び去って行くのですが、その後が大変です。

 しばらくすると被害に合った畑などから、ラングスタンの黒い幼虫が何百万と発生し、ピョンピョン飛び跳ね、車もスリップするくらい道路を埋め尽くします。タイヤで踏みつぶされた幼虫の死骸は2〜3日すると物凄い悪臭を放ちます。
 バッタの幼虫が大好きな鶏も、この時ばかりは逃げていきます。

 私達在留邦人は生き残った幼虫の処理に大忙しです。まず大きな穴を掘り、その中に掻き集めた幼虫を入れて、当時は殺虫剤なんかは無いですから、石鹸を溶かした水を入れて殺しました。

 しかしこのラングスタンも中国人の手にかかれば美味しい料理になります。

 捕らえておいた成虫を一晩おいて糞を皆な出させてから熱湯で茹で、メリケン粉で衣を付けて天婦羅にすると、とても香ばしくて美味しいおかずになります。
 襲来のあった後の2〜3日は、弁当の中にラングスタンのおかずが入っていた人々も多かったものです。


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2008年05月10日

Vol...(40) 危険なジャングル

 麻山開墾も大変な重労働ではありますが、隣接する密林の中にも様々な危険が待ち構えています。

 そのひとつは蜜蜂の大群です。
蜂はジャングルの大木の上に巣を作るのですが、それを知らずに木を切り倒し、数万の蜂に襲われて亡くなった人もいます。蜂は襲い出したら何処までも追いかけて来るので、作業中は近くに蚊帳を吊って逃げ込めるようにしていました。

 また蜂と同じくらい大きな黒蟻がいます。
ジャングルの落ち葉などの下に巣を作っていて一寸見てもなかなか判りません。
歩いていてその巣を踏もうものなら、蟻は物凄いスピードで一斉に足元から這い上がって来て所かまわず噛み付きます。
その時パチパチと歯を噛み合わせる音を発するので“パチパチ蟻”と呼んでいました。

 その他に、水牛をも絞め殺すといわれる錦蛇。当地では“ブワヤー”と言っていました。
 河川や海岸の近くにはワニも棲んでいました。

 ある時、バンケエロ河口にあったアイスプラン会社の構内に巨大なワニが迷い込み、名幸方亀さんと私達数名、そしてフィリピン人も一緒になり大格闘の末、取り押さえた事があります。
 そしてその肉を皆で分けて持ち帰り食べましたが、まるで鶏肉のように大変美味しかったのを憶えています。

 
 危険な植物もありました。
その木は沖縄に普通に生えてるユーナに似ていますが、その葉には強烈な毒があり素肌に触れただけで火傷をしたように真っ赤に腫れ上がります。
 ある日、開拓民の若者が暑いからといって上半身裸になりジャングルの中を歩いていたら、その葉に触れてしまい猛烈な痛みに苦しんでいた処を、たまたま通りかかった原住民のバゴボ族に治療してもらい助かったそうです。


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2008年05月09日

Vol...(39) ドリアンの魔力

 フィリピンのダバオは食べ物も豊富で、熱帯地ではありますが常に日本の5〜6月の様な気候です。
少し暑くなっても椰子やマンゴーの木の下に行けば心地よい風に誘われて思わずうたた寝をしてしまう位の処です。
 現地の人達も年中、薄手のワイシャツやズボン、短パンで過し、夜寝るときも薄い毛布が一枚あれば十分間に合います。

 フィリピンは熱帯果樹の豊富さでも世界的に有名です。その中に“ドリアン”という果実があります。
 ドリアンの木はちょうど日本の樫の木に似ていますが、苗木を植えてから7〜8年経って一丈ほどになると子供の頭くらいの大きなトゲだらけの実を着けます。

 木に実が着いている間は食べられませんが、熟して実が落ちて2〜3日後が一番美味しいと言われています。

 当時ダバオでは、こんな“ことわざ”がありました。
『新移民にはドリアンは喰わすな!現地人の女性のところには行かせるな!』

 これは夢と希望を抱きながら遥か異国の地を踏んだ新移民の若者が、ドリアンという不思議な果実の味に魅せられ、そしてフィリピン人女性の愛と優しさにのめり込み、働く意欲を失ってしまうと言う事です。

 はじめてドリアンを見た人は最初はその臭いに閉口しますが、しかし一度口にしてしまうとその味が忘れられなくなり、仕事を休んででもドリアンを探し求めるようになってしまう果実なのです。

 そして手に入れたドリアンを食べる時には、前もって隣近所に言わなければなりません。
黙ってこっそり食べようとでもしたら、その強烈な臭いで隣近所の人達が集まって来るからです。

 かの英国のエリザベス女王も、わざわざ取り寄せるほどドリアンに魅せられたひとりだったとの逸話も残っています。


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2008年05月08日

Vol...(38) 第ニの故郷

 未だ身体が完全に癒えない照屋亀助君とはダバオでの再会を約束して、私達は日本郵船の“熱田丸”に乗船して一路ダバオに向かいました。

 第ニの故郷ダバオに着いてからの一週間後、あの照屋亀助君が見違えるような元気な姿で訪ねて来たのです。いろいろな話をした後、別れましたが今も元気で居るならば八十代のお爺さんになって居る事でしょう。

 理髪店を任していた職人も、送金上のトラブルはあったものの良く店を守っていてくれました。

 それから一年後の昭和十ニ年八月、郷里の大宜味に残して来た妻はフィリピンでの生活が忘れられず、ミシンなど家財道具を売り払って旅費をつくり、再渡航して来ました。

 それからは、夫婦で理髪店をより一層繁盛させるために一生懸命働きました。


 私達が骨を埋める覚悟で選んだこの地、フィリピンのダバオにはそれだけの魅力がありました。
現地の人達との友好関係、野菜果物の豊富さ、快適な気候、そして一生懸命働けば それに応えてくれる国だったのです。

しかしまた、それが移民で来た人々を惑わせた一因でもあります。


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Vol...(37) 長崎教養所

 私が引率していく沖縄からの新移民は五名でしたが、彼らと共に長崎の国立長崎移住教養所という所に行きました。
そこは海外移民をするにあたっての心得を一週間かけて教育する施設です。

 入所して間もなく私は事務長から呼び出されました。
四十代くらいの吉田事務長は「貴方が大宜見さんか。ご苦労だが今から貴方を臨時職員に採用するから、入所中は皆んなの世話をよろしく頼む。」と言われました。

 沖縄から引率して来た五名ならば、どうにか面倒は見れる自信はあったのですが、教養所には日本各地からの移民希望者が大勢居ます。

 それからの私は大変な忙しさでした。皆んなを引き連れて米国領事館で渡航手続きをしたり、健康診断で診療所を行ったり来たりの毎日です。

 そんなある日、沖縄から引率してきた名護出身の照屋亀助君が体調をくずし、その夜には四十度を越える熱で寝込んでしまいました。
 医者に診てもらったところ急性肺炎だということです。

 私は沖縄から引率して来た責任がありますから、此処で亀助君を死なせる訳にはいきません。
夜も寝ないで必死に看病してましたら、そのうち沖縄から同行して来た皆んな、そして同所の皆さんが交代で看病してくれるようになりました。

 その甲斐あって亀助君も如々に回復していきましたが、困った事に本人はフィリピンへの渡航旅費以外、医者に支払う金の余裕はありませんでした。
 私は同所の皆なに相談すると一人当たり五十銭をカンパしてくれるという事で、計十五名から七円五十銭が集まり、それでどうにか医療費を支払うことができました。

 私はただ一生懸命、自分の責務を果たしただけなのですが、同所の所長はそんな私を認めてくれて、退所式にはお誉めの言葉と共に賞状まで頂きました。

 糸満で主人や漁師仲間から誉められた事はありますが、大勢の拍手の中で賞状を受け取るのは初めての体験で、とても誇らしく感動しました。


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2008年05月07日

Vol...(36) 一時帰国

 理髪店は益々繁盛するようになり、私一人では手が廻らなくなったので職人を雇いました。

私は此処ダバオに永住することに決め、郷里の大宜味から妻と息子を呼び寄せ様としました。
しかし妻は外国で生活する事を嫌がり、説得しようと努力しましたが承諾してもらえず、仕方なく相談の上、離婚しました。

 それから暫くして、郷里で大工をしている弟の親方のお世話で再婚する事になりました。
お互い写真のみでの見合い結婚です。当時の移民の中では結婚後、初めて対面する夫婦も珍しくはありませんでした。

 新しい妻を早速ダバオに呼び寄せました。来た早々から店に出てもらい顔剃りなどを教えましたが、すぐに覚えて客からも大変人気を呼びました。

 そして夫婦で一生懸命働くうちに五年の歳月が経ち、四人の子供にも恵まれました。
少しはまとまったお金も出来たので、理髪店を職人に任せて一時帰国することにしました。

 その頃、ダバオと那覇間を大坂商船“湖南丸”が就航していましたので私達家族はそれに乗船しました。
途中、台湾の基隆に寄港。肥後屋旅館に一週間ほど宿泊後、八重山、宮古を経由して那覇港に着いたのは昭和十年五月二十日、私にとっては十一年ぶりの帰国です。

 私は所持金千四百円の中から親の借金を完済し、喜如嘉橋の南側にあった十五坪ほどの家とその敷地七十坪を三百円で購入しました。

 ダバオの理髪店の職人には、店の売り上げから毎月三十ペソ(当時の日本円で五十円)を送金するように頼んであったのですが、それがなかなか送って来ません。
 私は所持金の残りを妻に預け、一旦独りでダバオに戻ることにしました。

 那覇の西武門にあった徳原移民事務所に行き、そこで渡航手続きをしました。
その際、所長の徳原さんから新移民の引率を頼まれたので、私は軽い気持ちで引き受けてしまいました。

 その事が後に、大変な苦労をすることになるのです。


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2008年05月05日

Vol...(35) 世界大恐慌

 移民の中には現地人の娘を妻にした人達も居ました。
バゴボ族、モロ族、アタ族、マンサカ族などの人々はそれぞれに広大な土地を持っています。

 そこの娘と結婚することは広い土地も手に入ります。
その土地を開墾し麻や農作物を作ることによって成功を収めました。その中に私の知っている沖縄県人も居ました。

 シラワン耕地の新垣福仁氏、ローヤン耕地の赤嶺三郎氏、ブナワン耕地の赤嶺亀次郎氏、テガト耕地の仲宗根新彦氏等がいました。
 当時その方々を頼って渡航して来た移民も大勢います。

日本人は勤勉でよく働くので、現地人からも大歓迎されていました。


 しかし麻山景気もそう永くは続きませんでした。
昭和五年頃から世界的な大恐慌が始まり、麻価も暴落。麻山経営も苦しくなっていきました。

 郷里の大宜味から夢と希望に胸膨らませフィリピンまでやって来た私達六名でしたが、宮城清三郎と私だけが残り、外の四名は僅かなお金を持って、淋しく帰国して行きました。


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2008年05月02日

Vol...(34) 一国一城の主人

 店の客の半数以上はフィリピン人でしたが最初の頃は言葉が解らず、主人の中村さんの通訳でどうにかやっていました。
 そのうち次第に言葉も理解できるようになり、お得意さんも増えてくると主人も認めてくれて、当時の給料としては良いほうの三十ペソも頂けるようになりました。

 私はこのダバオの街で働くようになってから、理髪業がとても有望な職業だと思いました。
そこで一日でも早く自分の店を持ちたいと考えるようになり、友人同士で模合を起こす事にしました。

 そんなある日、近くのマガリヤネス街に理髪店を持っている勝連村出身の前殿内さんという人が私を訪ねて来て、「私は身体を悪くして仕事が出来ないから、是非うちの店に来てくれませんか。次第によっては店を譲ってもいいですよ。」と言われました。
 よく話を聞いてみると、ラサン耕地に麻山も持っているらしいのですが、身体が回復したらそこへ行きたいとの事でした。

 私はその店で働くことに決め、主人の中村さんに話すと快く承諾してくれました。

 前殿内さんの理髪店はマガリヤネス街でもとても良い処に有り、道を隔てた向い側には伊豆味正公さんが経営する伊豆味旅館があって、私はそこに下宿することになりました。

 そして一年が過ぎようとしたある日、前殿内さんは「身体も元気になったし麻山に行くことにしたから、この店は貴方に譲ろう。」という事で話が決まり、私はかけてあった模合金で理髪店を譲り受けることにしました。

 これで私は小さいながらも“一国一城の主人”となれた訳です。

 麻山で別れた同郷の五名は相変わらず、それぞれの耕地で草刈りをやっていました。
その頃の日本は全国的に国民生活の苦しい時代です。国は外貨を得るため若者達に海外移民を奨励し、新聞や広報紙、雑誌などで盛んに宣伝していました。

 「海の向こうには黄金境の新天地が君達を待っている」というのが唱い文句でした。
しかし実際には厳しい労働や生活に耐えられず、夢破れて帰国していく人達も少なくはありませんでした。


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2008年05月01日

Vol...(33) 麻山

 私達は一息つく間もなくカタルナン耕地へと向かいました。そこには見渡す限りの広大な麻山が広がっていました。
 この麻山のほとんどが日本人、それも沖縄県人が所有していると聞かされ本当に驚きました。

 まもなく浦崎さんの麻山に到着しました。
そこではフィリピン人も大勢雇っていたので私達は二組に分けられ、宮城清三郎、宮城伊一、宮城安寿の三名は浦崎さんの麻山で。島袋正太郎、宮城安孝と私の三名は近くに麻山を持っている金武村出身の比嘉徳英氏の処で働くことになりました。

 そこでまず私達に与えられた仕事は麻山の草刈りです。夜も明けない暗いうちから日が暮れて辺りが真っ暗になるまで鎌で草を刈るのですが、それが土の中の根元まで掘り起こさなければいけないので、鎌は手前に反るように曲げられて造られています。

 それを一日中握りっぱなしの作業ですから、手はマメだらけ、指先の感覚も無くなるほど苛酷な労働でした。
 後に聞いたことですが、この比嘉徳英という人は近隣の麻山労働者たちの間では、人使いが荒いと評判でした。そこで私達三名は相談した結果、外の麻山に移ることにしました。
 正太郎、安孝の両名は、ここから遠く離れたカテガン耕地に麻山を持っている同村人の処へ行くことになり、私は浦崎さんの家に一晩泊めてもらい、今後どうするかを考える事にしました。

 その晩、浦崎さんは私が郷里の大宜味で理髪業を営んでいたことを知り
「せっかくの技術を活かさない手はない。ダバオ市内に出て理容師をやってはどうか」という事になりました。

 早速、翌日の朝二人で上原旅館の仁太郎氏のところへ出向き相談してみると、幸いなことに近所で長崎県人の中村梅吉さんという人が理髪店をやっていて、そこに就職できるよう取り計らってくれました。

 私はその時、このダバオでの再出発が本当の意味での第一歩だと思いました。


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2008年04月27日

Vol...(32) 目的地はダバオ

 神戸では岩国屋旅館に一週間ほど滞在しながら税関や米国領事館でも色々と渡航手続きがありました。
当時フィリピンはアメリカの統治下にありましたので、領事館の許可が必要でした。

 それと十二指腸、トラホームなどの検査もありました。
私は目の検査で引っ掛かり一時はどうなる事かと心配しましたが、五日目にやっとパスすることができホッとしました。

 そしていよいよ母国日本を離れる日がやってきました。

 神戸港から大坂商船“すらばや丸”に乗船し出航。 五日後には台湾の基隆港に着きました。
そこで船上で一泊し、翌日フィリピンへ向け再び出航しました。

 私達がフィリピンのルソン島、マニラの地を初めて踏んだのは昭和ニ年、正月の五日。
昭和元年は一週間しか無かったので、私達が日本を離れてフィリピンに着くまで二年かかった事になります。

 マニラでは四川旅館に四、五日滞在して、そこから目的地のミンダナオ島、ダバオまでは現地の船“ボホール号”(土人船と呼ばれていました)に乗って行くことになりました。

 ボホール号は、小さい上に速力も遅く、それに満員でしたので身動きもとれない程でした。
そんな状況の中この船は、フィリピン群島の点在する島々を何十ケ所も廻って行くのです。
イロサロ島を始め、レイテ、ボホール、セブ、サンボマンガ‥‥と巡って、ミンダナオのダバオに着いたのはマニラを出てから十三日も経っていました。

 ダバオでは私達が来ることの知らせを受けていた、浦崎さんが旅館のボーイを伴い迎えに来ていました。
早速私達六名は、ボーイの案内で上陸手続きを済ませ宿泊先の上原旅館へと向かいました。

 当地には他に、神戸館、柏原旅館、伊豆味旅館、コミドリ旅館と四軒ありましたが、私達がお世話になる上原旅館の主人、上原仁太郎氏は豊見城村出身でしたが、ダバオでは大変有力な方で日本人会会長、沖縄県人会会長を永年勤めていて、約一万二千人も居た沖縄県人同胞の“育ての親”とも呼ばれていました。

 上原氏は戦後、日本に引揚げてから神奈川県に居住され、一度市長選にも出馬されたこともある方です。
残念ながら昭和五十四年、八十九歳でお亡くなりになりました。


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2008年04月26日

Vol...(31) 比律賓への夢

 そうしたある日、いつものように浦崎先生の髪を刈りながら雑談をしている中で、こんな話をしてくれました。
 先生の実兄で浦崎康祥さんが比律賓(フィリピン)のダバオに居るらしいのですが、“麻山”の仕事が大分儲かるというので今、麻山開墾移民を盛んに募集していて、多くの人達が渡航しているとの事。

 それで先生は「貴方も行ってみませんか。とくに外地では日本人の理髪業は有望らしいですよ。
もし貴方に行く気があれば、兄に手紙を書いて受け入れ人(保証人)になってもらい、渡航手続きも簡単に出来るよう頼んでおきますから‥‥。」と言ってくれました。

 私は数日考えましたが、やはり行ってみたいという気持ちを押さえる事が出来ませんでした。
決心が固まると早速フィリピンへの渡航準備に入りましたが、親しい友人五名も、私の話を聞き一緒に行くことなりました。

 当時、大正十二年頃から昭和の初期にかけて、フィリピンの“マニラ麻”が世界的なブームを巻き起こしており、あちらこちらでフィリピン移民のことが話題になっていました。

 早速私達は、手続き料、旅費と当座の金で三百円ほど準備して那覇へ行き、通堂町にあった亀井捨之助という人の事務所で渡航手続きに入りました。

 フィリピンへ行って七、八年も働けば、大金を手にして郷里に帰れる。私達六名の夢は膨らむばかりでした。ただ、しばらく妻子と会えないのが心残りでした。

 那覇の港から大義丸に乗船して神戸に着いたのは、大正十五年十二月、雪の降る寒い日でした。


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2008年04月25日

Vol...(30) 結婚と理髪業

 そんな中、親戚から勧められて嫁をもらいました。
そして一年後には長男が生まれました。時は大正十三年、私は二十三歳になっていました。

 その頃から私は、自分の生涯の仕事について考えるようになりました。

 漁業は体力のある若い内は良いのですが、年をとってから、あの冬の冷たい海に潜ることは難しくなると思ったからです。
 そこで考え付いたのは、何時も危険と隣り合わせの海の上では無く、陸の上で安心して続けられる“理髪業”でした。

 幸い私は、糸満で長い期間の操業中でも大勢いる仲間たちの散髪を担当していたので、少しは腕に自信がありました。
 その当時から年期があけたら将来、町に出ても生活していくのに適した職業ではないか思っておりました。

 早速、塩屋部落で理髪店を営んでいる、友人の宮城善勝君を訪ねて相談してみると思いがけない話が持ち上がりました。
 彼が言うことには「自分は近い内に、大坂の知人の所に行く事になっているから好都合だ。君がこの店を引き受けてくれたら、こんな嬉しいことはない。」と、まるで夢のような話になりました。

 宮城君は、店も道具もそのまま残してくれましたので、すぐに仕事が始められました。

 私はここで漁業から理髪業に転職しましたが、そのことが私のこれからの人生に大きな変化をもたらす事になります。


 さて私が始めた理髪店は、開業早々から大繁盛でした。

 大宜味村内でも塩屋は一番大きな部落で、近隣の部落からも大勢のお客さまが来て大変な忙しさでしたが、そのうち友人も大勢できて楽しい毎日を過しておりました。

 ちょうどその頃、金武村宜野座出身の浦崎先生が塩屋小学校に赴任して来られました。
先生とご家族のお住いが私の理髪店のご近所でしたので、すぐに親しくなり色々と世間話を聞かせて頂きました。


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2008年04月22日

Vol...(29) 自分で稼ぐ

 私は前に世話になった本部の富盛組で働くことを決意しました。

 今度からは、働けば働くほどお金になりますから、「稼いできて、もっと良い家を建てますからからね」と
両親に許しを得て、本部に向かいました。

 大宜味から本部まで、歩いて一日がかり。
本部に着くと早速、富盛組の組長さんに会ってお願いすると、喜んで引き受けてくれました。

 翌日から皆と一緒に漁に出るようになりましたが、今まではいくら働いても奉公の身分ですから収益はすべて主人の物でした。
 しかしこれからは自分のものですから、仕事にも張り合いがでました。

 その年は運良く大漁続きでしたから、結構なお金を稼げて大宜味の我が家へ帰ることが出来ました。

 当時はニ〜三百円もあれば家が建てられる時代でしたから、早速、建築にとりかかり間もなく立派な家が出来上がりました。
 その時の両親の喜んだ顔は、今も忘れられません。

 その頃、大宜味村では村営のカツオ漁船“増進丸”を持っていましたので、私はそれに乗り雑魚なんかを採りましたが結構なお金になりました。

 また同村、字大兼久に“西り仲門組”(イリナカゾー組)と言うところが、糸満と同じ追込み漁を盛んにやっていましたので私もそこで漁に参加させてもらいました。


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2008年04月20日

Vol...(28) 郷里に帰る

 糸満に来てから、八年の歳月が過ぎようとしてました。
 年期奉公の満期も半年後に迫ったある日、主人は私を呼んで、あらたまってこう言いました。

「三郎、お前は真面目によく働いてくれた。年期もまだ少し残っているが、もう自由にしてやろう。
 いつでも山原に帰れるように、身の回りのものを整理しておくように‥‥
 お前とは八年間、家族同様に暮らしてきたし、山原に帰った後も親しくしていこうな。」

 と言われたときには、感謝の気持ちと郷里へ帰れる嬉しさで涙が止まりませんでした。


 それから三日後、永いあいだ住み慣れた主人の家に別れを告げ、山原の懐かしい親兄弟の元へ帰ることになりました。
 那覇から名護まで船に乗り、それから長い道程を歩いて大宜味の我が家へ着いたのは日暮れの七時頃でした。

 八年間一度も会ってなく、大きく変わった私を見て両親や兄弟たちはびっくりしてました。
ほんとに久しぶりに会ったものですから、皆んな言葉もなく黙って私を見つめていました。

 ただ母親は私に抱きついて、しばらく泣いていました。

 住まいはヒナギ原から、現在の字上原の安根部落へ移っていました。
しかし相変わらず、私が幼い頃に住んで居た粗末な茅葺き小屋でした。

 弟、妹たちもそれぞれに大きくなっていましたが、兄、朝広は大工見習いとして宮古島に行っていて、弟、朝三は学校の担任、宮城正喜先生の家で働きながら学んでいるとのことで家には居ませんでした。

 両親の話によると、未だ誰も収入は無く、生活は相変わらず苦しいとのこと。
永い苦労のせいか私には両親が大分、年老いたように見えました。


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2008年04月19日

Vol...(27) 命懸けの仕事

 これは私が本部に来てしばらくしてからの事です。

 その日は瀬底島の西方で漁をしていましたが、仕掛けた網が深さニ十ニ〜三尋もある海底の岩に引っ掛かり、どうしても取れません。

 そこで私が潜っていって外してくるようにと命ぜられました。
 舟べりを掴んで覗いても、あまりの深さに水中は真っ暗で何も見えません。

 舟の上では万一のために、潜りに自信のある二人の迎え人が待機させられていました。
私は深呼吸を大きく2〜3回やってから思い切って、海底までのびている綱を頼りに潜って行きました。

 海底に到着し、大きな岩に掛かっている網を外そうとウンッと力をいれた途端、“パチンッ”と大きな音がしました。

 鼓膜が破れたのです。その瞬間、耳から多量の海水が喉の方へ流れ込んでくるのを感じました。
網はどうにか外せましたが、そのあと朦朧として意識が薄れていきました。

 どうやって戻ったかは憶えていませんが、気が付くと舟の上にいました。
迎え人も潜って探しに行ったらしいのですが、海底は真っ暗だったので、途中で引き返したと言っていました。

 私の耳や鼻、口からは血がドッと噴き出していて、とうとうその場で気を失ってしまいました。

 鼓膜の破れた私の右耳は、今でも聞こえません。

 こうして糸満漁師としての永い年期奉公中に、さまざまな体験をしましたが、人間“命懸け”になるとどんな事でも出来るものだと思います。


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2008年04月18日

Vol...(26) 大網元

 当時、糸満で名の知られた追込み漁の大網元は、この“ミーウラシー組”の他に“東風門(ヘーゾーグヮー)組”と“富盛組”がありましたが、私は今回、その富盛組と一緒に行くことになりました。

 漁場は本部と伊平屋島近海でしたが、網元の富盛サールーという人は糸満出身ですが、仕事の都合で家は本部の谷茶にあり、そこから伊平屋方面に出漁していました。

 ある冬の寒い日、伊是名沖でのグルクン漁が大漁で、サバニに約三百斤ほど積んで本部へ航行中、冬の季節風が突然、北の方から襲って来て、見る見るうちに大暴風雨となりました。

 この海域は本部との間に伊平屋海流といって潮の流れが激しく、漁師仲間でも恐れられている場所です。

 あっという間に海は大シケとなり、私と他の三名は舟を操るのに必死でした。

 そんな時、唸るような大波が私たち目がけて襲いかかってきました。舟は大量のグルクンを乗せたままひっくり返り、私たちも荒れ狂う海に放り出されました。
 サバニは杉材ですから沈むことは無いですが、積んでいたグルクンはすべて流されてしまいました。

 私たちは一生懸命、舟を起こそうをしましたが その度に大波が襲って来て、またひっくり返されます。
どうにかこうにか舟を立て直し、本部港に着いたときは身体が寒さで冷えきっていて身動きが出来ない状態になっていました。

 ちょうど港に居た女性たちに介抱してもらい、やっとの思いで家に辿り着き、休むことができました。


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2008年04月17日

Vol...(25) 追込み漁

 私が糸満に来てから三年の月日が経ちました。
 年も十六歳になり、あの苦しかった猛訓練のおかげで、今はすっかり自信もついて毎日、漁に励んでいました。

 そんなある日、私は主人にお願いして、糸満漁師の花形である“追込み漁”に加わらせてもらうことになりました。
 この追込み漁は、時期が来ると魚を求めて沖縄全海域に組をくんで行くのですが、私もその時に糸満でもっとも評判の高かった“ミーウラシー組”と共に慶良間諸島に向かいました。

 着いた漁場は慶良間諸島のひとつ、座間味島の近海。
 私はこの仕事で、初めの内は皆なと一緒にオモリを持って泳ぐ追込み組でしたが、技術が認められて潜り専門になりました。

 袋網を上げる時と深い処に網が引っ掛かった時などは、どんなに寒くても またどんなに深い処でも潜って行かなければなりません。それが潜り専門漁師の務めなのです。

 私が受けた訓練の甲斐があって、この大勢の漁師の中でいつもトップ組でした。


 約半年間の漁期が済んで、糸満に帰る頃は“糸満ハーリー”(旧暦の五月四日に行われる豊漁祈願の爬竜船競争)の時期になっております。

 主人は大漁のおかげで大金を手にし、私も「よく頑張ったな。」と誉められました。


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2008年04月16日

Vol...(24) イリガン(入れ髪)

 そうしているうちに加那はようやく意識を取り戻すようになりました。

 次は濡れた着物を取り替えようと脱がしてみると、昨夜の老人がやったとみられるイリガン(入れ髪)が、加那のフンドシの結び目に、強く巻き付いていました。

 余りの不思議さに、皆ビックリ。 それを大事にタオルに包んで持って帰りました。

 加那は漁に出た晩から、暴風雨と荒波にさらされながらも、かろうじて生き抜き、一週間目にやっと救助されました。
 糸満に戻ってからは、皆なの心遣いで次第に元気を取り戻すことができました。
 そしてあのイリガンは、糸満警察署が保管するため持っていったそうです。

 この不思議な出来事が起こったのは、大正五〜六年頃だったと思います。

 私はその時、救助隊の一員として船に乗っていましたし、また加那本人とも親しい仲だったので、この事は一生忘れる事ができません。

 当時の全糸満町民を騒がせた、この出来事を憶えていらっしゃる方は、現在の糸満にはほんとに数少ないと思います。
 あの不思議なイリガンは、当時の糸満警察署に保管されたと聞きましたが、今ではどうなっているかもわかりません。

 この平良清次こと加那は、私と同年でしたが残念ながら五十代で病死しております。

 ルカン礁は、糸満漁師にとっては格好の漁場ですが、危険な事や恐い目にあったりする場所でもあります。

 国頭村字辺土名出身の若い漁師が、小さなトビウオの追込み漁で仲間数人と泳いでいたところを、大サバ(大鮫)にひと飲みされ、周囲が血で真っ赤になってから気付き、大騒ぎになったという話も聞きました。


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2008年04月15日

Vol...(23) ルカン礁

 一方、糸満では早速、船を出し加那の救助のためルカン礁に向かいました。

 現場は風は弱まってもまだ波は高く環礁の中に入ることがなかなか出来ませんでした。
 船上から見ると確かに砂の瀬に人が横たわって居るんですが身動きひとつしません。皆はもう死んで居ると思ったそうです。

 仕方なく叉今度も引き返すしかありませんでした。

 糸満に戻った救助隊は明日の加那の遺体を収容する相談をして、その日は解散となりました。

 七日目の朝は、昨日とはうって変わり快晴で波もだいぶ静かになっていました。早速、玉姫丸に環礁の中に入るためのサバニを曳航してルカン礁に向かいました。

 現場に着いたのは午前九時頃。数人がサバニに乗り環礁の中に入って加那の処に行ってみると、死んだようにぐったりはしているものの微かに息をしているではありませんか。

「イチチョーンドー!(生きてるぞー!)」
 玉姫丸に合図を送り、持参の水筒から水を一口、少しおいてからまた一口二口と、少量ずつ加那に飲ませました。


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