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2008年12月11日

Vol...(116) 荒海を乗り越えて

 その場所に2〜3年は居ましたがカルテックス(給油所)が出来ることになり、住宅は近くの安里川沿いに建て、理髪店は道路向かいの宮城光雄さん宅の1階に移転しました。

 それからの数十年、理髪業一筋に過してまいりました。

 その間、通貨もB円(軍票)からドル、そして日本円と変遷を辿り、それまでアメリカ軍政下にあった沖縄は昭和47年(1972年)に本土復帰を果たします。

 八十代半ばになった私は、道路拡張工事のため店を移転せざるをえなくなったのを機に理髪業を辞め、今は繁多川の自宅で余生を過しております。

 フィリピンのダバオ在住23年。大東亜戦争に巻き込まれ土地財産の全てを失いましたが、かろうじて生き延びることが出来ました。
 ダバオ引揚者で結成された“ダバオ会”が毎年5月15日に糸満市摩文仁で盛大な慰霊祭を催しておりますが、私は毎回欠かさず参加して戦争で犠牲になった方々のご冥福を祈っております。

 私がこの文章を書き始めたのは、戦争というものがいかに愚かで虚しく、罪の無い多くの一般住民をも犠牲にする悲惨極まりないものだという事を、子や孫に伝えたいためです。
 私は飢えや死の恐怖に直面した人間の変貌と狂気を数多く目にしてきました。これもすべて戦争のせいです。戦争は二度とあってはなりません。

 戦争の記憶は体験者の老齢化と共に月日が経つにつれ忘れ去られていきます。
私の体験を書き連ねたこの記録が、少しでも後世への歴史証言と反戦平和へのメッセージとしてお役に立てれば幸いです。

 最後に、このつたない文章を読んで頂き有難うございました。これからも戦争の無い平和な世の中が続く事を願いながら、この辺りでペンを置きたいと思います。
 誤字脱字も多々あったと思いますが御容赦下さい。


【著者略歴】 大宜見 朝忠(オオギミ チョウチュウ)

1899年(明治32年) 沖縄県大宜味村で生れる。
1911年(明治44年) イチュマンウイ(糸満へ身売り)される。
1926年(大正15年) 開拓移民としてフィリピン・ダバオへ渡航する。
           ダバオ市マガリヤネス街に理髪店を開業する。
1935年(昭和10年) 再渡航の際、長崎移住教養所にて渡航教育の功績で
           吉田事務長より表彰状を授与される。
1940年(昭和15年) 沖縄県人会ダバオ支部長・マガリヤネス街日本人隣組々長を務める。
1941年(昭和16年) 開戦。フィリピン小学校へ強制収容されるも日本軍上陸により開放される。
1944年(昭和19年) 戦況悪化によりダバオからタモガンの密林へ避難する。
1945年(昭和20年) 終戦。日本へ引き揚げ。鹿児島・加治木収容所へ入所する。
1947年(昭和22年) 大宜味村塩屋部落で理髪店を開業。組合長を務める。
1950年(昭和25年) 那覇へ転居。安里(旧真和志村)で理髪店を開業する。
1951年(昭和26年) 真和志理容師会が発足。副会長に就任する。
1956年(昭和31年) 真和志理容師会相談役に就任する。
1958年(昭和33年) 真和志理容師会々長に就任する。
1959年(昭和34年) 真和志理容師会顧問兼連盟理事に就任する。
1971年(昭和46年) 南部地区理容師連合会相談役に就任。後に感謝状を授与される。
1977年(昭和52年) 沖縄県理容環境衛生同業組合から多年の功績により表彰状を授与される。
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2008年11月28日

Vol...(115) 那覇へ

 朝子の死から二年。私は喜如嘉で理髪店を営んでいました。
その頃には大宜味村内にも理髪店が増え、理髪業組合もでき初代会長に前田平徳氏、二代目会長は私が務めました。

 私は常々那覇に出たいと思っていたので家族揃って引っ越す事にしました。

 沖縄戦で集中砲火を浴び一面焼け野が原だった那覇も道路が整備され、その周囲には家々が立ち並ぶ様になっていました。
 私達は大道に小さな茅葺きの家を借りる事ができました。

 私は安里橋近くにあった喜納喜昌さん経営の山喜理髪店が職人を探しているというので、早速そこで働く事にしました。
 喜納さんは私よりひとつ年下でしたが理髪業の経験は浅く、理容師免許も持っていませんでした。
私はお客の散髪の合間にいろいろ喜納さんに技術指導しましたが、その甲斐あって一年ほどで免許を取ることが出来ました。

 しばらくして喜納さんの友人の娘さんがインターンとして来ることになったので、私はこの機会に自分の店を持つ事にしました。

 現在、安里インターチェンジになっている処は当時、高い土手になっていて戦前その上を軽便鉄道が走っていました。
 そこの西側に住宅を兼ねた家を借り理髪店を始めましたが、開店早々からお客さんがひっきりなしで妻と二人では間に合わないほど繁盛しました。

 ある日の事です。その日は朝から物凄い土砂降りでした。
表通りと店の間には排水溝がありますが、排水溝といっても深い溝を掘って、その中に両端を開けたドラム缶を並べてあるだけの簡単なものです。
 いつも大雨が降ると道路と排水溝の見分けがつかないほど水が溢れ出していました。

 そんな中、学校帰りの少年がコウモリ傘をさして店の前を通りかかりました。
少年は生まれつきか戦争で負傷したのかは判りませんが足を引きずりながら歩いていました。

 私はその時お客の散髪中で、鏡に映る少年が危なっかしくハラハラしながら見ていましたが突然、鏡の中の少年が消えました。
 ビックリして持っていたハサミと櫛を放り投げて表に飛び出すと、少年は今まさにドラム缶に呑み込まれようとしています。
 飛び込むように私がドラム缶に手を入れるのと、少年が手を放すのが同時でした。
 運良く少年の襟首を掴む事が出来ましたが、水の流れがとても速く、私も一緒に引きずり込まれそうになりました。
 それでもどうにか少年を引き上げて救出する事が出来ましたが、二人とも泥水でびしょ濡れになっていました。

 その少年の名前も喜納と言っておりましたが、喜納少年(当時12才)も元気ならば現在50代になっているでしょう。
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2008年11月21日

Vol...(114) 朝子の死

 安根部落の実家には両親他、兄妹も居ますから私達家族7名が加わる訳にはいきません。
私達は喜如嘉の義母の家にやっかいになる事にしました。

 それからの私は一家9名の食糧を確保しなければなりません。当時はお金で物が買える時代ではなく、すべて物々交換でした。

 私は加治木から理髪道具を持って来ていたので、それを担いで各部落を回って散髪をし、その代金代わりに芋や米を手に入れました。それを妻や子供達が取りに来て喜如嘉に持ち帰るという生活がしばらく続きました。

 そのうち塩屋部落にあった米軍のコンセット(かまぼこ形の建物)に理髪店を出させてもらい、やっと落ち着いて仕事が出来る様になりました。

 昭和二十三年のある日、次女の朝子が高熱で寝込んでしまいました。
医者もいろいろ手を尽くしてくれましたが、家族の見守る中とうとう還らぬひととなってしまいました。享年15才でした。

 朝子は頭も良く、学校の成績もいつもトップクラスでしたが、生まれつき心臓が悪く運動は苦手でした。
あのタモガンの厳しいジャングル逃避行でも、荷物を背負って長い道程を移動するのは大変苦しかったと思います。それでも胸の痛みに耐えながら弟や妹の面倒を良くみてくれていました。

 今やっと戦争という死の恐怖から開放され、これから青春を謳歌できる年頃になっていた朝子の早すぎる死に、私達家族は深い悲しみに打ちひしがれました。

 私はタモガンで2才の明美、郷里の大宜味で15才の朝子と、わずか三年の間に二人の娘を亡くしてしまったのです。
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2008年11月19日

Vol...(113) 再会

 私達を乗せたトラックが郷里の大宜味村安根部落に着くと、沿道には多くの人達が集まっていました。
その中に懐かしい両親や兄妹の顔も見えます。

 車から下り立った私を見つけた母は、いきなりカチャーシー(喜びの踊り)を踊り始めました。
父も年老いてはいましたが元気そうで、お互いの無事を手をとりあって喜びました。

 それから私達は妻の母親の居る喜如嘉へと向かいました。
 義母には長女・洋子の面倒をみてもらっていたので元気かどうか気になっていました。

 ダバオでの生活も落ち着いた昭和十年、私達家族は一時帰郷しましたが、洋子だけがフィリピンに戻るのを泣いて嫌がるので、仕方なく義母に預けていました。

 喜如嘉の義母は大変元気そうで妻も私も安堵しましたが、洋子は焚き木を取りに行っているとの事で家には居ませんでした。
 私は通りに出て洋子が帰って来るのを待つことにしました。
しばらくすると道の向こうから頭に焚き木を乗せた洋子が、夕日を背にゆっくり歩いて来ます。

 私に気付かず通り過ぎようとする洋子に
「洋子、元気だったか?お父さんだよ。」と声をかけると、驚いたように振り向いた洋子は、しばらく私の顔をジッと見つめていましたが突然、乗せていた焚き木を放り出して逃げるように何処かへ走り去って行きました。

 無理もありません。その時の洋子は14〜5才。十年前に別れた父親が突然目の前に現れたのです。
驚きと戸惑いでどうして良いか判らなかったのだと思います。

 その日は此処に泊まる事にしましたが、夜になっても洋子は帰って来ませんでした。

 翌日の昼前、戸口に隠れるようにこちらを伺っている洋子が居ました。
義母が「何してる?洋子、お前の家族が帰って来たんだよ、さぁ中に入りなさい。」と言うと、恥ずかしそうにモジモジしながら私達の所に入って来ました。

 これは後に洋子から聞いたのですが、自分は親に捨てられたんだと、ずっと思い込んでいたそうです。
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2008年11月18日

Vol...(112) 帰郷

 そんな私達もついに郷里の沖縄に帰れる日がやって来ました。

 事務所に呼ばれた私は、ベンハムさんから数枚の写真を見せてもらいましたが、それには一面焦土と化した無惨な姿の沖縄が写っていました。

 沖縄は国内で唯一、住民を巻き込んだ地上戦が繰り広げられた処です。

 昭和20年3月26日、慶良間諸島の攻撃から始まった沖縄戦は、6月23日に沖縄守備軍司令官、牛島満陸軍中将の自決によって日本軍の組織的戦闘は終結しますが、そのわずか3ヶ月の間に20万人近い犠牲者を出したのです。その中の半数が民間人でした。

 ベンハムさんは「沖縄はこんなひどい状況だから帰っても仕方がない。此処に残って理髪業を始めた方が良いのではないですか?」と勧めてくれましたが、私は郷里に居る親兄妹の事が気掛かりでしたので、やはり帰る事にしました。

 私達家族は、お世話になったベンハムさんや所長さんに丁寧にお礼を言ったあと沖縄へ向かう船に乗りました。

 翌日の午後、船は中城湾の久場崎に着きました。
しばらく収容施設に居ましたが北部へ向かう乗合いトラックが出るというので、私達はそれに乗って郷里の大宜味村へ向かいました。

 途中で見る中部の風景は戦禍の跡が生々しく、瓦礫の山が築かれていました。

 そのうちトラックが郷里に近づいて来ると、戦前とあまり変わらない風景が拡がってくるようになりました。

 4月1日に沖縄本島中部の読谷、嘉手納に上陸した米軍は、本島を南北に分断した後、日本軍司令部のある南部へと侵攻したのです。砲撃も中南部に集中しましたが、北部はそれほど激しい爆撃を受けていませんでした。

 それでも私は両親や兄妹の、無事な顔を見るまでは気が気ではありませんでした。
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2008年11月17日

Vol...(111) 福岡移送

 ある日、私達家族だけ別の部屋に移されました。
そこはこじんまりとした小さな部屋でしたが、床には毛布が敷きつめられ木炭ストーブまで置かれていました。

 私達を案内してくれた職員から
「近日中に引揚者全員が福岡に移動する事になっていますが、大宜見さんの家族は此処に残れるようにしなさいとベンハムさんから指示されました。ですから貴方達は福岡に行かなくても良いですよ。」と言われました。
 私は何から何まで気遣ってくれるベンハムさんに感謝の気持ちでいっぱいでした。

 それから2〜3日して全員移送される日がやって来ました。
その日はとても寒い夜でしたが引揚者の中には病人も居ます。それでも窓も閉まらない夜汽車に乗せられ、遠い福岡まで連れて行かれる事になったのです。

 その中に、大宜味村謝名城出身の平良 春さんが居ました。
彼女は妻の出産直後から生まれたばかりの赤ちゃんの面倒を良くみてくれていました。

 春さんは私達の旧い友人ですが、夫がこの収容所で病死してしまい、彼女自身もマラリアを患っており、栄養失調も重なって歩くのも不自由になっていました。

 私はそんな春さんを独りで福岡へ行かせるのが偲び無く、此処に残れるよう所長さんに頼んでみる事にしました。
 最初はすでに決められているからと断られましたが
「春さんは私の兄妹のような者です。此処では私が責任を持って面倒みますから、どうか家族の一人として預からせて下さい。沖縄にも必ず一緒に連れて帰ります。」 
とお願いすると、所長さんもやっと了承してくれました。

 それから春さんは、私達と同じ暖かい部屋で食事も十分とる事が出来、みるみるうちに元気になっていきました。
posted by og at 16:26| 沖縄 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月15日

Vol...(110) 妻の出産

 ベンハムさんは此処の占領軍事務所の責任者でしたが、収容所を管理する事務所もありました。
そこには日本人の所長と数名の職員が居ました。

 十一月五日、臨月に入っていた妻が急に産気づきました。

 私は急いで事務所へ行き所長さんに事情を話すと
「大丈夫ですよ。所内に妊婦が居ることは判っていましたから、前もって産婆さんを手配出来るようになっています。それから出産費用も当所で払いますから何も心配する事はありません。すぐ呼ばせますから貴方は奥さんの側に居てやって下さい」と言ってくれました。

 私が教室に戻るとすぐ後から職員2名が来て、妻の周りを毛布で囲ってくれました。
産婆さんの家は収容所の近所だったらしく、数十分後には私達の処へ来てくれました。

 産婆さんは50代の方で名前を“相生てい”さんといいました。
ていさんは助産婦としてはベテランらしく、妻はほんの10分ほどで無事に女の子を出産する事が出来ました。
 それからは毎日のように様子を診に来て下さいました。
妻は産後の日立ちも良く、4〜5日後には自分でトイレにも行けるようになりました。

 一週間ほどして、ていさんが「もう大丈夫そうだから明日から私は来なくても良いでしょう。もし何かあれば事務所に行って私を呼ばせなさい」と言いました。

 私はていさんに丁寧にお礼を言い、二人で事務所へ向かいました。
お世話になった所長さんと職員の皆さんにお礼を言った後、私は「赤ん坊の名前をつけて頂けないでしょうか?」と所長さんとていさんにお願いしてみました。

 お二人はしばらく考えていましたが、ていさんが「ここは建昌国民学校だから、建昌の昌を頂いて“昌子(マサコ)”と言うのはどうでしょう?」と言いました。
 事務所内で拍手が起こり「それはとても良い名前です!」と皆さんが祝福してくれました。

 教室に戻りその事を妻に報告すると、抱いている赤ちゃんに「昌子ちゃ〜ん」と呼びかけていました。

 その後お礼に、お菓子や缶詰、砂糖などを持って“相生てい”さんのご自宅に2〜3回お邪魔しましたが、沖縄帰郷後にはお会いする事は叶いませんでした。
posted by og at 11:02| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月14日

Vol...(109) “芸は身を助ける”

 “芸(技)は身を助ける”という言葉がありますが本当にそうだと思います。

 私は大宜味村で生まれましたが、家が貧乏だったため12才の時に糸満へ身売り“イチュマンウイ”され、八年間にわたる厳しい漁師生活の中、見よう見まねで仲間の散髪をしたのが私の天職となったのです。

 年期が明けて郷里に戻った私は、塩屋部落で初めて自分の理髪店を持つ事ができ、その後、麻山開拓移民として渡ったフィリピン・ダバオでも店を持つ事が出来ました。

 ダリヤオンの収容所では、その技術のお蔭で妻や子供達にひもじい思いをさせなくて済み、そして此処、加治木の収容所でもベンハムさん達のご好意もあり、周りの人達が羨むような特別待遇を受ける事になったのです。
 
 人にはそれぞれに適した職業があると思いますが、私は理髪業という天職にめぐり合えて本当に幸運だったと思います。


 私達フィリピンからの引揚者が鹿児島の加治木町に収容されている事を聞きつけて、実妹の信子・照屋林徳夫婦が訪ねて来ました。
 妹夫婦は戦前から神戸に住んでいましたが、私達家族が寒さに震えているのではないかと、遠路はるばる布団など夜具一式を持って来てくれたのです。

 当時は汽車に乗るにも大変な時代で、長い列に並んでキップを買い、混雑した車内で夜具を包んだ大きな荷物を持って来るのは一苦労だったと思います。

 私達家族が思いのほか元気で居たので、安心してその日のうちに帰って行きましたが、親兄弟を気遣う妹夫婦の気持ちがとても嬉しく胸が熱くなりました。
posted by og at 13:00| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月13日

Vol...(108) 収容所での食事

 当時、収容所内での食事は収容者各自が噐を持って炊事場に行き、御飯と汁ものを貰って来て食べていました。
炊事係は、あらかじめ用意されている小さなお椀に御飯を入れてから、持って来た器に移し替えていました。汁ものもお玉一杯と決められています。もちろんおかわりなどは出来ません。

 そんな状況の中、収容所内の大人も子供もいつもお腹を空かしていました。

 ある日、炊事係の女性が私達家族の処へ来て、日本海軍が食事のとき使用していた金属製の大きな器と、蓋付きの汁もの入れを持って来ました。

「ベンハムさんからこれを大宜見さんの処に持って行く様に言われました。次ぎから食事配給の時はこれを持って来て下さい」と言われました。

 夕食時に持って行くと、他の収容者達には碗で計る様に入れていた御飯を、私の噐には山のように盛っていきます。

 私が「あ!いや、そんなには食べきれません」と言うまで入れてくれました。
汁ものも十分入れてもらい教室に持ち帰って食べましたが、どうしても御飯が余ります。それを妻がおにぎりにして同室の子供達に分け与えていました。

 それからというもの食事時になると私達家族が食べ終わらないうちに、子供達が周囲を取り囲んで、妻が作るおにぎりを待つようになりました。

 戦後何十年経った今でも、沖縄の激戦地、摩文仁の丘に建立されている“ダバオの塔”の慰霊祭では
「大宜見さんですか、私は加治木の収容所でおにぎりを貰った○○です」と、しっかりオジサンやオバサンになった当時の子供達が挨拶にきます。

 その頃は収容所ばかりでは無く、加治木町の住民達も食糧の確保が困難で、汽車で遠く離れた農家まで行って持参した着物を、米や野菜に換えるという様な生活でした。

 そんな状況下ではありましたが、私達家族は食事に不自由する事はなく、4人の子供達はいつも元気でした。
posted by og at 13:21| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月12日

Vol...(107) Mr ベンハム

 事務所に連れて行かれた私は、宮城さんから米国人のベンハムさんを紹介されました。
ベンハムさんは此処の責任者のような方で片言の日本語も話す事ができました。

「貴方はフィリピンでバーバー(理髪業)をやっていたそうですが、此処でもお願いできますか?
報酬は物資の中から何でも欲しい物をあげますよ」と言われました。

 私は即座に「はい!喜んでやらせてもらいます!」と答えた後、事務所を出ました。

 翌朝九時頃、事務所に行くと宮城さんと米兵3名が待っていました。
「彼らは早い時間からここに来て大宜見さんを待っていました。早速ですが隣の部屋で始めて下さい」と宮城さんに促され隣の部屋に行ってみると、理髪道具の置かれたテーブルと椅子、それと大きな鏡も準備されていました。

 米兵の散髪はとても簡単で楽な仕事でした。
彼らのほとんどがGIカットですから刈上げるだけで済みました。洗髪やヒゲ剃りをするかと聞いても「ノー、サンキュー」と言って断ります。

 散髪が終わると大変喜んで、煙草やチョコレート、お菓子や缶詰などを置いていきます。
それを家族の元へ持ち帰ると子供達はとても喜んでくれました。

 次ぎの日から米兵達が順番待ちの列を作るようになりました。
それでもあまり苦にならず、流れ作業のように一人一人刈上げていきました。

 夕方、一段落して教室に戻ろうとすると、事務所に物資担当をしているワルレス(ウォレス?)という米兵が来ていました。

 ベンハムさんから指示されたと言う彼は、私を倉庫に連れて行き「何か必要な物は無いですか?」と尋ねてきました。
私はとりあえず毛布3枚とオーバーコート2着を受け取ってから教室に戻り、病気や寒さに震えている人達に分け与えました。

 その中に私がダバオでお世話になった勝連村出身の前殿内さんが居ました。
前殿内さんは戦前、ダバオのマガリヤネス街に理髪店を持っていましたが、私がその店を譲り受けて開業させてもらった方です。

 私はワルレスに頼んで日本軍の残した物資の中から、日本陸軍が満州やシベリアなどで着る防寒用のフード付き外套と軍靴を貰って来て、寒さで震えている前殿内さんに差し上げたらとても喜んでくれました。
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2008年11月11日

Vol...(106) 建昌国民学校

 昭和二十年十月二十五日、私達家族は鹿児島の地を踏む事が出来ました。

 そのとき私が47才、妻・光枝36才、次女・朝子12才、三女・規子10才、長男・朝人8才、次男・朝三郎が5才でした。そして2才だった明美はタモガンのジャングルの土の中で眠っております。

 私達引揚者一同は加治木町の収容所に連れて行かれました。
着いた所は鹿児島県加治木町、建昌国民学校。

 そこは終戦当時まで日本軍の兵舎だったらしいのですが、米軍占領後、引揚者の収容施設として使われるようになりました。

 建昌国民学校は実に大きな学校で、二教室には日本軍が残した物資が山と積まれていました。
 私達はそこの七教室に分けられ収容される事になりました。

 十月から十一月に入ると教室内でもかなり冷え込んで来ていました。
此処でも多くの人が亡くなりました。特に体力の弱い小さな子供が風邪をこじらせ急性肺炎で死んで逝きました。
 中城村出身の安里さんは3人の娘さんを立続けに亡くし、伊江島出身の友寄さん(旧姓・内間)は2人のお子さんを亡くしました。そして私と同じ大宜味村出身の平良盛保君も此処で亡くなりました。

 遺体は棺に入れて庭先に置かれるのですが、他の教室でも死亡者が出るので棺はどんどん増えていきます。
2〜3日もすると死臭が教室内にも漂って来ました。


 入所して3日目、此処で通訳をしている名護市出身の宮城栄行さんが私の処へやって来ました。
宮城さんはマニラで長崎バザールという商店を経営していた方です。

 彼は「大宜見さんに会いたいと言う人が居るので一緒に来てほしい」との事で、私は収容所内の事務所へ連れて行かれました。
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2008年11月10日

Vol...(105) 鹿児島入港

 船倉に戻ると米軍からの食糧支給が始まっていました。
ミカン箱大のケースに缶ビール大の缶詰が12個入っており、缶詰の中にはビスケット、バター、砂糖など5種類の食べ物が重ねられて入っていました。

 それが大人子供の区別なく全員に配られました。私達家族は6人ですから6箱も貰えたので周りの人達からずいぶん羨ましがられたものです。

 その夜は緊張の糸が弛んだのか私はぐっすり眠ることが出来ました。
翌朝も同じ食糧が配られ、喜んだ子供達はいつ見ても何か食べていました。

 午後になると今度は上質の毛布が全員に支給されました。

日本語の話せる乗組員が
「この毛布は船長から貴方達への贈り物です。今頃の日本は寒いから毛布を全員に配りなさいと船長から命令されました」
と言っていました。

 私達は思いがけないプレゼントに大喜びです。

 熱帯地方のフィリピンで生活していた私達ですから防寒服を持っている者はほとんど居ません。
船が日本に近づくにつれ船倉内も冷え込んで来ていましたから、この毛布でずいぶん助かりました。

 私達は運良くこの引揚船ハッチンソン号に乗り込む事が出来ましたが、他の船では食糧もわずかで、毛布の支給も無かったとの事です。

 しかし、そんな恵まれた船の中で祖国日本を目の前にしながら、マラリアや赤痢で死んで逝く人も多勢いました。

 遺体は毛布に包まれた後、船尾に並べられ汽笛の音と共に海に落とされ水葬にふされます。

 ボォ〜〜〜と身体に響く別れの汽笛も泣いているように聞こえていました。


 十月二十五日、ハッチンソン号は鹿児島に入港しました。

 私達は乗組員の整列する中、下船を開始しました。4〜50代だと思われるハッチンソン号の船長は、微笑みながら私達一人一人と握手をしたり一礼したりして声をかけてくれました。

 私達引揚者を優しく気遣ってくれたアメリカ人の船長が居たことを、戦後何十年経った今でも忘れる事はありません。
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2008年11月09日

Vol...(104) 引揚船ハッチンソン号

 輸送船にトラックが横付けされると、まるで巨大な黒い壁が倒れかかって来るような圧倒感がありました。
吊り階段を上ってデッキに出ると船首から船尾までは百数十メートルはあろうかと思われる一万トン級の船です。

 船の名前は“ハッチンソン号”。
私達は荷物を持って船倉へと下りて行きました。中は仕切りが無く広々としていて気持ちが良く、床には分厚い板が敷きつめられていました。

 次から次と下りてくる人々で船倉は間もなくいっぱいになりました。
 数時間後、出航の汽笛が鳴ったので私は急いでデッキに戻りました。
 
 遠くにアポ山、マッキンレー山が見えます。その裾野に拡がっているのは広大な麻山。


アポ山 1900年初頭、開拓移民の先人達がジャングルを切り拓き、マラリアと戦いながら築き上げてきた血と汗の結晶が、粉々に飛び散ったのです。中には原住民に殺された人もいました。

 私が麻山開拓移民として初めてダバオの地を踏んでから23年。
大変な苦労もありましたが、家族や仕事にも恵まれ、多少の財産も築く事が出来て、此処“南海の楽園ダバオ”に骨を埋めるつもりでいた私達に、突然“大東亜戦争”という名の大暴風雨が吹き荒れたのです。

 その暴風は何百万の人命を奪い、私達の夢と希望をも根こそぎ破壊し尽くして行きました。


カモメ そして今、砲弾の雨や風が止んで静寂が戻り、聞こえるのは頭上を飛び交う海鳥の鳴き声と、長く白い航跡を引く波の音だけです。

 私は遠ざかっていくフィリピンの島々を見つめながら、ルリーや明美、北浦軍曹の事が走馬灯のように思い出されて涙が止めど無く溢れ、滲んだ島影が水平線の彼方へ消えるまでその場に立ち尽くしていました。

 裸同然になった私達を乗せた引揚船ハッチンソン号は一路、祖国日本へと針路をとりました。
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2008年11月08日

Vol...(103) 海の上を走る車

 翌朝、眠れない夜を過した私は子供達を早めに起こし準備をさせました。

 午前9時頃、皆な海の見える広場に集まるように言われました。沖には数隻の大きな輸送船が停泊しています。
 あの船に乗って祖国日本に帰れる。私達在留邦人の中には涙ぐむ者までいました。

 米軍医師による身体検査が始まり、その中の数名が残されました。

 もし伝染病を持っている者が船に乗ったら瞬く間に蔓延します。検査で残された人は、きっとその疑いがあったのでしょう。

 それから私達は一列に並ばされ米兵が一人一人数える中、水陸両用トラックに乗せられました。

 早めに並んでいた私達家族6人は運良く同じトラックに乗る事が出来ましたが、後ろから来た母子が乗り込もうとすると、しっかり握っていた子供の手を米兵が振り解きました。

 驚いた母親が「この子は私の子供です!」と言っても米兵は「ノー!ノー!」と首を横に振り、後ろに並んでいる男性に押し付けるように子供を渡しました。

 トラックに乗せる人数制限が厳しく決まっていたのかは知りませんが、母親が泣きながら懇願しても米兵は首を横に振るだけです。
 走り出したトラックから母親が身を乗り出すように「その子をお願いします!」と泣きながら男性に頼んでいました。

 別のトラックに乗せられたら同じ輸送船に運んでくれるかどうかは判りません。
その後、その母子が無事に再会を果たせたかを知る事は出来ませんでした。

 私達を乗せた水陸両用トラックは浜辺を走り抜け、そのまま海に突っ込み白波を立てながら沖の輸送船を目指しました。
上陸用舟艇とは違い、四つの黒いタイヤを持つトラックが深い海の上を走る事が不思議でなりませんでした。
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2008年11月07日

Vol...(102) 祖国への送還前夜

 昭和二十年八月十五日、日本は終戦を迎えましたが、私達フィリピンの在留邦人は、それから一ヶ月以上も遅れて終戦を迎えたのです。苛酷なジャングル逃避行の中で大勢の犠牲者を出したものの、私達はどうにか生き延びて此処ダリアオン収容所まで命を繋ぎ留める事が出来ました。

 後は日本に送還され、懐かしい故国の大地を踏みしめる日を夢見る毎日です。

 しかし中には、せっかく収容所まで連れて来られながら、伝染病やアミーバー赤痢に罹っている事が判り収容所内には入れず、隔離用のテントの中で寂しく死んで逝った人達もいます。

 その中に私と同じ大宜味村出身の金城保一郎君もいました。

 アミーバー赤痢に罹り、もう助からないと診断された者は米軍医師の手により注射で安楽死させられたとの噂も立っていました。


 ダリアオンに来て数週間経ったでしょうか。
いよいよ明日は日本へ送還されるという日がやって来ました。その夜は各収容所の門が開放され、隣からも大勢の人が集まって来ました。

 ほとんどがタモガンに避難していた人達で、当時の事をいろいろ話していました。

 爆撃で一瞬のうちに家族を亡くした父親。

 病気で動けなくなった妻を置き去りにして来た老人。

 片足を失った兄弟を泣く泣く避難小屋に残して来た青年。

 日本兵に食糧を奪われ子供を飢え死にさせた母親。

 直撃弾を受けてバラバラに飛び散った夫の肉片を必死に掻き集めたという妻‥‥

 肉親を死なせてしまった悲しみと見捨てたという罪意識が、皆なと話す事によって少しは和らいでいたのでしょう。
 その日は深夜まで語り合う人々で収容所内はいっぱいになっていました。
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2008年11月06日

Vol...(101) ダリアオン収容所

 ダリアオンの収容所は古川プランテーションの耕地内に造られていました。
麻畑だった処に柱を数十本立て鉄条網で囲っただけの簡単な収容施設です。それが数カ所ありました。

 私達一般の在留邦人が収容されている処はそれほどでも無いのですが、日本軍兵士の収容所は米軍の厳しい監視下に置かれていました。

 収容所内には雨除けのための天幕があちらこちらに張られており、私達家族はその一角に場所を確保する事ができました。
 しかし雨が降ると水はけが悪く、天幕の中もすぐに泥沼のようになります。
これでは眠る事も出来ないという事で収容所内の元気な人達が交代で排水溝を掘り、そのうち水も入って来なくなりました。

 この収容所へ入って間もなく、私は事務所へ呼ばれました。
事務所といっても収容所内の天幕の下に机と椅子が置かれているだけの処です。
行くと、椅子に坐り微笑みながら私を手招きしている人がいます。その人はダバオで大きなホテル(柏原ホテル)を経営していた柏原義巳さんでした。

「大宜見さん、良くご無事で何よりです」と握手をした後、こんな事を言いました。

「早速だが大宜見さんに収容されている邦人達の散髪をお願いしたいのです。貴方一人では大変でしょうから他に2〜3名探して理髪部を結成し、その責任者になって貰いたい」との事でした。

 私は快諾したかったのですが他の理容師達には何らかの報酬が無いと説得しづらいと言うと、柏原さんは

「わかりました。この収容所では炊出したお粥が一日3回配給されますが、貴方達理髪部には午前十時と午後三時に間食を用意しましょう。
 それとは別に米軍にお願いして煙草や缶詰も支給します。それから米軍からの徴用作業に行かなくても良いように交渉してあげますよ」と言ってくれました。

 それならばと私は早速知り合いの理容師3名にお願いして理髪部を結成しました。
道具は事務所に用意してあるというので行って見ると、何処から持って来たのか理髪道具が山と積まれています。

 私達理髪部の4名は、その中からそれぞれに使い勝手の良いものを選び、早速収容者達の散髪に取り掛かりました。
 朝から晩まで立ちっぱなしで相当疲れましたが、合間に出される間食がとても豪華で美味しく毎日の楽しみになっていました。
 煙草や缶詰も支給されましたが、米兵達も綺麗になっていく収容者達の頭を見るのが嬉しいらしく、時々私達理髪部にお菓子や缶詰などを差し入れてくれました。

 おかげで妊娠九ヶ月に入っていた身重な妻や子供達にも十分食べさせる事が出来、有り余った支給品は収容所内の人達に分けてあげたので大変感謝されました。
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2008年11月05日

Vol...(100) 投降

 私達は話し合った結果、皆な一緒に米軍に投降する事にしました。
各家族がそれぞれに荷物をまとめた翌日、私達は上カテガンから米軍の居る下カテガンへと向かいました。

 私の持っていた錆びた軍刀は米軍に没収されるのは判っていたので、途中のススキの原に押し込むように捨てました。


投降 下カテガンの大通りに出ると米軍の大きなテントが設営されてあり、その前には在留邦人の避難民が大勢集まっていました。
 身体検査と荷物の中を検査された後、30人位ずつトラックに乗せられダリアオンの収容所に送られていました。

 鬼畜米英と恐れられていた米軍兵士は思いのほか親切で私達避難民に優しく接してくれました。

特に女子供には優しく、ビスケットやチョコレートなどを与えながら一人一人に声をかけていました。

 英語の判らない子供達はお菓子を貰っても最初は誰も食べようとしません。

 そこに多分ハワイ生まれだと思いますが日系二世の米軍兵士が来て
「皆さ〜ん、これには毒など入っていませ〜ん。ほーら、こんなにして食べるととても美味しいですヨ〜」
と片言の日本語で言った後、子供達の前でバターの缶詰を開けてからビスケットに塗って美味しそうに食べて見せました。

 それを見た子供達は安心したのか、その後は美味しそうにお菓子を食べ始めました。
そして缶詰やソーセージなども貰った後、トラックに乗せられ収容所へと送られました。

 途中、道の両端に大勢のフィリピン人達が居て何やら大声でわめいています。
中には唾を吐きかける者、石を投げ付けて来る者まで居ました。

 開戦前のダバオでは、あんなに親しく付き合っていたフィリピン人が、敗戦国となった私達日本の在留邦人に対する態度の変わり様に、とても悲しく複雑な気持ちになりました。
posted by og at 02:29| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月04日

Vol...(99) 終戦の知らせ

パパイヤ 私達一行8人は途中で米兵に遭遇する事も無く、無事に上カテガンに到着しました。
上カテガンは爆撃の被害がほとんど無く、トウモロコシやバナナ、パパイヤなど豊富な食べ物がありました。

 私達家族が初めてカテガンに来た時に、家や畑を提供して下さったあの仲松弥富、ツル夫妻もお元気で再会を喜びました。
 タモガンのジャングルで別れ、それぞれに別行動をとっていた義妹の大城初、真秀夫婦とその子供達も一足先に此処へ来ていてお互いの無事を喜び合いましたが、ただ悲しかったのはその中に明美の姿が無いことでした。

 久しぶりに落ち着いた生活を取り戻し、松尾さん座間味さんとも親しく付き合う平穏な日々が続いていた9月下旬頃の事です。
トンボが一機カテガン上空を旋回した後、ビラをまき散らしていきました。

 日本語で書かれたそのビラには“日本は八月十五日に無条件降伏した。米軍は決して危害を加えないから速やかに投降するように”と言うような内容のものでした。

 それでも私達は半信半疑でした。中には「日本が負けるはずは無い、これは敵国の宣伝ビラだ」と言う者もいました。

 そんなある日、10月の5〜6日だったと思いますが、大城真吉、真秀兄弟や仲松夫妻他多勢が集まり雑談している処へ、以前カテガンにあった日本軍の前田隊々長の文書を持った若い兵士がやって来ました。

 それによると“日本国は昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受理し無条件降伏しました。フィリピンの日本軍は9月17日をもって組織的戦闘を終結し、米軍に全面降伏しました。在留邦人の皆さんも速やかに避難地を出て米軍に投降して下さい”と書いてあり署名捺印されていました。

 その場の私達は一瞬沈黙に包まれました。そしてそれが嗚咽へと変わっていったのです。

 思い起こせば避難命令が出てからカテガンからタモガンのジャングル、そして地獄谷と常に死の恐怖と隣合わせだった一年にわたる逃避行もやっと終わったのです。その場に居た皆なそれぞれに胸に去来するものを噛み締めていました。
posted by og at 13:20| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月03日

Vol...(98) レイテ島

 途中、読谷村出身の座間味さんという人に会いました。
座間味さんは独身で連れは誰もいませんでした。

 同じ上カテガンを目指しているというので一緒に行く事になりました。
いろいろ話しながら歩いていると前方に高床式の家が一軒見えたので、そこで休んでいく事にしました。

 中に入ろうとすると上から一人の男性が下りて来ました。
私は「あ、すみません、空家だと思ったものですから‥」と言うと
「いいえ構いませんよ、私も昨日ここに来たばかりですから。ひとりでは寂しかったからちょうど良かったです、さぁどうぞ」と微笑みながら手招いてくれました。

 松尾と名乗るその男性は、軍の報道部に居たらしいのですが施設は壊滅状態で任務が果たせないと言っていました。
 軍服は着ていませんでしたが腰にはピストルを下げていました。

 松尾さんはさすが報道部に居ただけあって情報に詳しく、私達にいろいろ話してくれました。

「我が軍はこの戦争に勝ち目は無いですね。南方の各島々の日本軍守備隊はことごとく全滅していますし、特にレイテ島に於いては悲惨極まりなかったそうです。


レイテ レイテ島には日本陸軍第十六師団、一万六千人の守備隊が居ましたが、昨年(昭和十九年)の10月20日、700隻をも超える米軍艦船からの艦砲射撃が雨あられと降り注ぐ中、兵士達は壕の中から一歩も出る事が出来ず、そのまま上陸して来た大型ブルトーザーによって生き埋めにされたとの事です。

 海は完全に米軍に制圧されているから、日本から食糧や物資を積んだ輸送船も島に着く前にことごとく撃沈されます。


 レイテの生き残った日本兵はジャングルの中に逃げ込みましたが、そこに待ち受けていたのは飢餓地獄です。

 食糧物資の補給を絶たれた兵士達は、あまりのひもじさにヘビやカエル、トカゲやタニシのような物まで食べました。
 生で食べた大勢の兵士がアミーバー赤痢に罹りました。赤痢に罹ると日に20〜30回は下痢便をします。
 そうなるともう部隊に着いて行く事ができません。その場に坐り込んで用便したまま死んでいったそうです。

 レイテでは米軍の攻撃で死んだ兵士よりも、飢えや病気で死んで逝った兵士の方が多かったのではないでしょうか。

 食糧や銃の弾丸まで尽きた日本軍が、物量を誇る米軍に立ち向かえるはずがありません。この戦争はもうじき終わりますよ」
と松尾さんは言っていました。

 私は話しを聞きながら、タモガンで別れた糸数君とレイテの兵士達を重ね合わせ思わず涙ぐんでしまいました。

 松尾さんも私達と同行する事になり、座間味さん、私達家族、総勢8人で上カテガンに向かう事になりました。
posted by og at 13:13| 沖縄 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月02日

Vol...(97) 怒鳴る米兵

 翌日、荷物をまとめて小屋を後にしました。
これからはジャングルを通らずに麻山沿いの道を上って行く事にしました。

 目指す処は上カテガンです。
本道に出てみると、まだ新しいタイヤ痕がありました。明らかに米軍車両の通った跡です。
私達はエンジン音が聞こえたらすぐ近くの麻山の中に逃げ込めるように耳をすましながら先を急ぎました。

 日暮れ近くに雨が降り出したので今夜の泊まる所を探しながら坂を上って行くと運良く一軒の空家を見つける事ができました。
 私達はそこに一泊する事にして夕食の支度をしていた八時頃です。
先ほど通ってきた坂道の下の方からエンジン音が聞こえてきました。

 起こしていた火を急いで消し、子供達を家の奥へ移動させ、私は壁の隙間からジッと様子を伺いました。
ライトをつけた米軍のトラックが近づいて来て坂道に差しかかった時、前にも増して大きなエンジン音を立て始めました。

 どうやらタイヤがスリップして、なかなか坂を登れない様です。
トラックから下りてきた数名の米兵が大きな声で何か怒鳴りながら一生懸命押しています。

 米兵の声を初めて聞く子供達は、抱き合ったままブルブル震えていました。

 トラックは何度か勢いを付けて登ろうと試みていましたが、とうとう諦めて戻って行きました。

 ホッとした私達は今夜降ってくれた雨にほんとに感謝したものです。

 翌朝はカラッと晴れて物凄く良い天気になっていました。
私達家族は米軍のトラックがすぐまた来るような気がしたので、急いで荷物をまとめ追われるように空家を後にしました。
posted by og at 14:07| 沖縄 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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